2019年12月28日。
長年のネッ友、富山の英ぼさんと京都で忘年会♪~♪ d(⌒o⌒)b♪~♪ランラン
5年ぶりの新幹線なので、前日まで乗り方を復習して、
朝の太田川放水路を渡る山陽本線。
あっという間に、
京都どすえ~。
11時半過ぎにはもう行列の、新福菜館本店で、
ひとつのチャーハンを分け合い、
中華そばの小。
色は黒いが気立ては優しゅうおす。さっぱり系の、病みつきになりそうな美味さ。
京都駅に戻り、約8.5Kgの荷物をキャリーサービスに預ける。
宿まで運んでくれるので、身軽になって観光できて便利。(ただしお酒類の液体はだめ)
高瀬川を渡り、東山へ向かう。
高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞をすることを許された。それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ廻されることであつた。(森鴎外『高瀬舟』)
水は少ししか流れておらず、舟が上り下り出来ようもないが、冬枯れか、それとも用なしになったのか。
鴨川を渡り、まっすぐ行くと、三十三間堂の南端に着く。
後白河上皇の院の御所として造営、その後秀吉が築いた土塀と南大門が遺る。
南大門をくぐると、後白河天皇御陵が右手奥にある。
三十三間堂。通し矢とか、見てみたい。
京都国立博物館の前を通り、
豊国神社の前を通り過ぎ、
京都らしい長屋を過ぎて、
六波羅蜜寺
このあたりは平清盛の屋敷があったといわれ、六波羅探題もこのあたりであったらしい。
口から阿弥陀仏があらわれている有名な空也上人立像が安置されているのも、このお寺。
花盛六波羅禿見ぬ日なき 与謝蕪村安永9年の作。六波羅禿(かむろ)は、清盛が京都市中を探索させた、おかっぱ頭の少年たち。赤の直垂に白い袴をはいた少年たちの集団が、
平家物語絵巻にも見える。清盛の悪口を言おうものなら、彼らに引っ立てられたらしい。
桜が咲き乱れる花盛りの京の市中を、六波羅禿たちが肩で風切って歩く姿。華やかで、どこか危険な香りがする。古典世界に題材をとった、蕪村独自の世界。
平清盛塚の横には、お地蔵様が並んでいた。
さて、ここから東山通を渡り、五条坂へは行かず、大谷本廟へ目指す。
池に細い糸が張りめぐらされている。
後徳大寺大臣の、寝殿に鳶ゐさせじとて縄を張られたりけるを、西行が見て、「鳶のゐたらむは、何かは苦しかるべき。この殿の御心、さばかりにこそ。」とて、その後は参らざりけると聞き侍るに、綾小路宮のおはします小坂殿の棟に、いつぞや縄を引かれたりしかば、かのためし思ひ出でられ侍りしに、まことや、「烏の群れゐて池の蛙をとりければ、御覧じ悲しませ給ひてなむ。」と人の語りしこそ、さてはいみじくこそとおぼえしか。大徳寺にも、いかなるゆゑか侍りけむ。(『徒然草』第十段)
鳶よけに縄を張ったのを見た西行が「鳶が住み着くのはいいではないか」と言ったのを思い出したが、小坂殿では「カラスが池の蛙を獲るのを悲しんで」と聞いて感じ入った、というのを思い出しながら歩いた。
大谷本廟を過ぎると、お墓が建ち並ぶ。
ここは鳥辺野。化野、蓮台野とならぶ平安時代の三大埋葬地のひとつで、藤原道長もここに葬られたという。
あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の烟立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。(『徒然草』第七段)人は滅びるからこそ、しみじみといいのだと、兼好は言っている。
また、西行はいくつか鳥辺野(鳥辺山)を詠んでいる。
鳥邊野を心のうちに分け行けばいまきの露に袖ぞそぼつる(『山家集』雑歌)
《詞書き》ゆかりありける人はかなくなりにける、とかくのわざに鳥部山へまかりて、歸るに
かぎりなく悲しかりけりとりべ山なきを送りて歸る心は(『山家集』哀傷歌)
《詞書き》鳥辺野にてとかくのわざしける煙のうちより出づる月あはれに見えければ
鳥辺山わしの高嶺のすゑならむ煙を分けて出づる月かげ(『山家集』哀傷歌)「いまきの露」は不詳。「わしの高嶺」は釈迦が説法したというインドの霊鷲山のこと。
二首目は、縁者との別れの悲しさが詠まれている。
一首目は、縁者でなくともよいかもしれない。普遍的に生のはかなさに、涙で袖が濡れると言っている。露は涙の縁語であり、はかなさの象徴である。
三首目は、鳥辺山は釈迦が説法した霊鷲山に連なる山だからだろうか、人の終の姿である煙の向こうに月が明るく出ていると、思考と感情が止揚されているように思える。
ついでながら兼好は、第七段のつづきにこうも言っているのだが。
命長ければ辱多し。長くとも、四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。 鳥辺野の向こうに、清水寺の三重塔が見える。
清水寺は人でいっぱいだった。
西門のあたりをうろうろして、次へ向かった。
つづく
1. 無題